躰道の歴史 無類の実戦武者との出会い

大正14年に沖縄県・有銘に生まれた祝嶺正献先生は、琉球国王家の血統を受け、また祖父は法律家、父は教育家という家庭で育った。

そんな祝嶺先生と、空手の出会いは、富名腰義珍と親交のあった父のすすめによるものであった。

でばなぜ、父は息子に空手をすすめたのであろうか?

その理由として幼少の頃、虚弱であった祝嶺先生の体質改善はもちろんのこと、知育・徳育(文化を継承することで、沖縄人という自覚を養う)の観点で空手を生かし、人作りをしようと試みたことが考えられる。

祝嶺先生が最初についたのは、佐渡山安恒といい、古流唐手の使い手であった。当時、先生は8歳。あくまでも稽古よりも体質改善に重きが置かれていたにも関わらず、その鍛練は熾烈を極めた。

つまり、こうである。家の周りに仏桑華の花で垣根を作り、それを飛び越していくものだ。仏桑華の苗木は約25cm程度のものだが、その成長は極めて早く、一日約1cmずつ成長する。毎日伸び続ける仏桑華の成長力と、それを飛び越す力=跳躍力との競争であった。言い換えれば自然と人との闘いでもあった。

そして自然との戦いに勝利した彼は、屈強な肉体と跳躍力を手にいれることとなる。さらにその後、研鑽を積み重ねた結果、成人になる頃には、約2メートル近くにまで達したという。

次に祝嶺先生が師事したのは、岸本祖考老師であった。

岸本老師は、自身の師は一切持たず、若い頃から「掛け試し(実戦)」で腕を磨き、自分の空手を練り上げていった無類の実戦武者であった。そのため流派・流儀名など持たず、また弟子も取ることはなかった。

そこで祝嶺先生が学んだことは、「一技一事」-数多くある技のなかから、自分にあったものを選び、それを極めよ、ということであった。

そのため、一つのことが終わらない眼り、次の段階に進むことはなかった。だから先生が13歳から軍隊に入るまでの約5年間で学んだ形はたったの3つ、ナイファンチ・公相君・バッサイのみであった。特にナイファンチは形の真髄ということで田んぼに膝まで漬かり、2年問がこの形の習得のみに費やされたという。